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Bill Evans

ビル・エバンス
1929-08-16
1980-09-15
アメリカ合衆国、ニュージャージー州、プレインフィールド

バイオグラフィー

誕生~初期

ビル・エバンスは、ニュージャージー州のプレインフィールドで、父ハリーと母マリーの間に生まれました。父親はウェールズ人の家系でゴルフコースを経営、母はウクライナ人で炭鉱夫の家系でした。この二人の結婚生活は、父ハリーの飲酒とギャンブルにより荒れてました。ビルには2つ年上の兄ハリーがおり、固い絆で結ばれていきました。

父ハリーの破壊的な性格により、母マリーは時折息子二人を連れて家を離れ、妹の住むサマービルで過ごしました。兄ハリーは5歳から7歳の間にピアノレッスンを始めました。ビルには早すぎると思われたが兄のレッスンで聴いた音楽を真似し始めたことから、間もなくビルもレッスンを受け始めました。

後にエバンス兄弟はノースカロライナ州のシャーロットで当地のピアノ講師ランディ・ニューマンのレッスンを受け始めました。スケールやアルペジオなどの技術に集中しない優しさを覚えていました。ビルはじきに初見演奏の能力を高めていきますが、講師は兄の方が優秀なピアニストであると評価していました。7歳になってビルはバイオリンレッスンを受け始め、その後フルートとピッコロを習い始めます。これらの楽器は長く続きませんでしたが、キーボード演奏のスタイルに影響したと信じられています。

6歳から13歳まで、ビル・エバンスはクラシック音楽の楽譜のみを演奏していて、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトをよく演奏した作曲家にあげています。高校時代はストラヴィンスキーのペトルーシュカに接し「とてつもない経験だ」と感動し、ダリウス・ミヨーのSuite Provencaleでは複調音楽を「新しいものを開いた」と評していました。同じ頃、Tommy DorseyやHarry Jamesなどをラジオで聞いたのが初めてのジャズでした。

13歳のとき、病気のピアニストの代わりにバディ・バレンティーノのリハーサルバンドに参加しました。兄ハリーはすでにトランペッターとして参加していました。この頃、エバンスは初めて楽譜にない音を、「タキシード・ジャンクション」で演奏したと行っています。エバンスは Earl Hines, Coleman Hawkins, Bud Powell, George Shearing, Stan Getz, そしてNat King Coleなどを聴いていました。特にNat King Coleを好んでいたようです。

その後まもなく、エバンスはニュージャージー中のダンスパーティーや結婚式で、ブギウギやポルカなどを時給1ドルで演奏するようになります。結果として学業に問題が出てきました。エバンスはまた、地元の友人二人とトリオを組みました。この頃、後にレコーディングを共にするDon Elliottに出会っています。このころの友人で重要とされるベーシストのGeorge Plattは、音楽和声理論をエバンスに教えた人物でした。

大学、陸軍、研究休暇

1946年9月の高校卒業後、エバンスはサウスイースタン・ルイジアナ・ユニバーシティ(SLU)にフルートで奨学金を得て就学しました。クラシックピアノ演奏をLouis P. Kohnop、John Venettozzi、Ronald Stetzelに指示しました。エバンスの成長の要となったのはGretchen Mageeで、彼女のメソッドはエバンス作曲技法に重要な印を残しました。

大学時代の三年目あたりで、エバンスは「Very Early」を作曲しました。エバンスはSLUのPhi Mu Alpha Sinfonia(男性による音楽共同団体をさしていると思われます)のDelta Omega Chapter(支部の名前?)の設立メンバーで、このフットボールチームでクオーターバックをしていました。また、大学のバンドにも所属していました。1950年、シニアリサイタルでベートーベンのピアノ協奏曲第3番を演奏、ピアノ専攻と音楽教育専攻で学位を取得しました。大学時代の後期3年間を人生で一番幸福なときと述懐しています。

大学時代、エバンスはギタリストのMundell Loweと出会い、卒業後にRed Mitchellをベーシストに迎えトリオを結成しました。3人はニューヨークへ移りましたが、ブッキングを獲得する能力に欠けたため、すぐにイリノイ州のCalumet Cityへ移りました。1950年7月、、エバンスはシカゴのHerbie Fieldのバンドに参加しました。夏、ビリー・ホリデーのバックバンドとして3ヶ月間のツアーに出て、ハーレムのアポロシアター、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで演奏しました。バンドにはトランペットのJimmy Nottingham、トロンボーンのFrank Rosolino、そしてベースにはJim Atonがいました。シカゴに戻ってから、エバンスとAtonはクラブでデュエットで演奏し、時折ボーカリストにLurlean Hunterを迎えました。その後まもなくしてエバンスはアメリカ陸軍より召集令状を受け取ります。

3年間(1951-1954)の軍役期間中、エバンスはフルートとピッコロをフォート・シェリダン(イリノイ州?)の第五アメリカ陸軍バンドで演奏します。また、基地のラジオ局でのジャズプログラムでホストを務めたり、時折シカゴのクラブでも演奏、このとき後に一緒に録音したりする近い友人となるボーカリストのLucy Reedに出会っています。また、同じく親友となるボーカリストでベーシストのBill Scottにも出会っています。軍隊での生活はエバンスにとって精神的な負担となり、何年も悪夢に悩まされます。このとき、エバンスは初めて自身の音楽的コンセプトに自信を失ったとされています。1953年頃、エバンスの最も有名な「Waltz for Debby」を作曲、姪にささげています。この頃エバンスはレクリエイショナル・ドラッグの使用を始め、時折マリファナを吸ったりしました。

1954年に退役し、厳しい批判を受けた影響から隔離生活に入ります。研究休暇として親元へ戻り、スタジオにグランドピアノを入れて技術を研鑽を重ねます。自己分析型のエバンスは自身には他のミュージシャンによる流動性ににかけると信じていました。Baton Rouge(ルイジアナ州)で結婚し、音楽学校の教師になっていた兄のハリーを、エバンスは訪ねました。<続>